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コモンミールKYOTO

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Posted by 京つう運営事務局 at

2010年04月30日

インカ料理「森繁」

京都に昭和32年に入って、実に不思議なお店が誕生した。
インカ料理「森繁」

四条木屋町下がった「フランソワ」の並び

カウンターに座り、インカコーラとホワイトシチュー

この森繁さんの写真も紹介している貴重なブログが
http://3bayashi.com/k/hibi/morishige/top.htm

そして、この「こだわりの店」を紹介しておられるのが
http://3bayashi.com/k/hibi/kodawari/top.htm
なんと女優の三林京子さん。
http://3bayashi.com/k/profile/A4.asp
お顔を見れば知らない人はないでしょう。

しかも落語の一門にも名前がある。

今度、一門の方にお会いしたら、聞いてみたいが、なんと幅広いご活躍ばかりか、しっかり記録を残しておられる。
「森繁」さんは、今や伝説の人。
なぜなら京都エスニック50年史の始まりのお店。
店が閉まってからも、娘さんがインカコーラを販売しておられる情報で、途切れる。

やはりホワイトシチューのある「ビクーニャ」にのみ伝説が受け継がれたのだろうか。
詳しい方、関係者の方、コメントください。
http://3bayashi.com/k/phot/top.htm
  

Posted by コモンミールKYOTO at 00:43Comments(0)レストラン創業者

2010年04月28日

大槻晶彦 ハラールの仕事人

「ファーイースト」京都にあったエスニック料理店の草分けにひとつ。
元々大阪資本。このスタッフとして京都に来た大槻氏。

会社の京都撤退後、自分のお店「ぐるぐるカフェ」を開いた。
店は、カウンターのみの小さい空間。

しかしここに集うのは、世界から来た人。

イラン・カンボジア・ウクライナ・インド・フィンランド・・・・・・

個々には紹介しきれない。

京都で大槻晶彦を知らないのは、エスニックのもぐり。といっても過言ではない。

といううのも、インド・トルコ・イラン・インドネシア・・・・多くのイスラム圏の人が使うハラール食材の窓口。

必然的にお店も、世界各国のミュージシャンなどのたまり場。

その一人が藤野バヤン 通商「バヤン」。

エジプトのベリーダンスのジャミーラ。京都大学でインド哲学を学んだサンスクリット語ができるベリーダンサー

モンゴルの歌姫 伊藤麻衣子・・・・などなど。

会いたい方は、東大路東鞍馬口北西角

初めての方には手製のはりがねぐるぐる巻いたアクセサリーくれるかも。  

Posted by コモンミールKYOTO at 17:42Comments(0)レストラン創業者

2010年04月23日

木屋町の魚がおいしい「しんご」

「しんご」といえば、先斗町や木屋町・四条界隈で働く人にとって、魚がうまいと評判のお店。
おまけに安い。

「京野菜の納涼膳」は、¥3200で口取り・ハモ落し・鮎の塩焼き・京野菜天麩羅・ハモ雑炊まで付く。
酒好きにはたまりません。

そんな人気店にもうすぐ100人以上が押しかける日が近づいてきた。
しんごが以前のお店で時代からのファンも集うライブも日。

4月26日。ご主人の大好きな音楽ライブが。

なにおよりも、その人柄で多くのファンを持つ1人の料理人の最良の日になるかもしれない。  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:07Comments(0)料理人

2010年04月18日

スピークイージーの藤本さん

京都バーテンダーの顔

「スピークイージー」の藤本さん

若かりし頃同名のお店で働く。

アメリカロスで働く。

帰国後、自分の店を持つつもりで、渡米前にお世話になった「スピークイージー」に挨拶に行くと

閉店を考えておられた。

それなら、私に譲ってください。

思い入れのあるお店の看板を受け継いだ。

とはいえ、お店は修学院の北白川音羽川の袂にあったのを、修学院駅の西側下がるに移転

自分がアメリカで感じた世界を作った。

新しい藤本ワールドは、近くの留学生の溜まり場になった。

アメリカンスタイルのしっかりお肉のバーガーやタコスなどのメキシカンスタイルやサラダ

今、大丸北で挑戦したお店で様々な試行錯誤を繰り返している。

もうすぐ修学院に戻って、自分らしいスタイルで、しっかり腰すえて

藤本ワールドを再構築する計画

お酒のプロ

これだけは譲れないと必死で勉強した結果が

長年バーテンダー協会の京都の顔になってきた。

多くの若いお酒のプロからも慕われている。  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:39Comments(0)レストラン創業者

2010年04月16日

メキシコ食材を、家庭のまで普及させた別所さん。

北白川に、かつて「ベラクレス」といううメキシコ料理店があった。

この店の創業者、別所邦夫

http://www.worldtrading.jp/contents/profile01.html

今では、岡崎のメキシコ料理店「レイナデレイナ」以外に、タイ他海外工場も持つメキシコ食材の輸入元「ワールドトレーディング社長。  

Posted by コモンミールKYOTO at 02:11Comments(0)レストラン創業者

2010年04月11日

割烹 露瑚(ろこ) 岡田幹司社長

割烹 露瑚(ろこ)
木屋町二条下がるにある床のある小粋な割烹店

このお店のオーナー 岡田幹司社長

これほど自分が表に出ないすごいオーナーは珍しい。

スペインから帰国後、輸入雑貨「グランピエ商会」設立(銀閣寺の「ノアノア」の地下からの出発。
東京青山と平行しての営業ながら

京都エスニックの草分け「無国籍料理カプリチョース」「カプリチョースセグンド」スペインバル「セサモ」「プエルタ」「カプリチョース麺粥」「鹿ケ谷山荘」「我忘」宇治の「ちょうちょ」「丁子屋」「割烹 露瑚(ろこ)」他にもプライベートな食空間を手がけている。

常に自分の人生の中で、居心地がいいと思う空間を自分で作り続けてきた。

「鹿ケ谷」「我忘(ボアは猪)」「ちょうちょ」で猪鹿蝶。

今は究極のくつろぎの場割烹 露瑚(ろこ)。

陶芸でも才能を発揮するも、名前は出さず。

きっと民芸運動のパトロンのお父様の血かもしれない。

http://www.granpie.com/



  

Posted by コモンミールKYOTO at 23:35Comments(0)レストラン創業者

2010年04月10日

京都のスペイン料理店「ボデゴン」創始者高田さん

京都のスペイン料理の歴史は、嵐山の「ボデゴン」に始まる。
このお店は車折神社の神官の息子さんであった高田さんが創業者。

東大出身。中近東や欧州。特にスペインの貿易商として、戦後いち早く海外に進出。その時のコレクションを集めた個人用ビップルームとも言うべほんまもんのスペイン空間を嵐山に開いたのが最初。

当初は店ではなかったが、交流のある各界の名士が訪れるプライベート空間であった。
後の人間国宝近藤悠三 京都芸大名誉教授で京大西アジア調査隊の小山喜平などシルクロード所縁の人々との交流のなかから振舞われたスペイン料理が評判となって「スペイン料理ボデゴン」が誕生した。

その意志は、今も嵐山に受け継がれている。
渡月橋から天龍寺へ向かう北東の桜餅のお店と同系列。

http://suzuki.888j.net/domestic/kyoto/kyoto.html  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:54Comments(0)レストラン創業者

2010年04月09日

大槻一之

大槻一之
京都一安い和食のお店?
中近東「キリム」の貿易商?

http://www.kinokilim.com/page/1
2つの顔を持つ男。

下鴨生まれ。
洛北高校山岳部出身。

「グランピエ商会」時代キリムなど織物の担当者として、シルクロードを走り回る。

山男として、信州仕込みか?
「蕎麦打ち名人」のニックネームも。
専用道具が、若かりし頃からすぐに蕎麦を披露。

あの「北山荘」もこやなく愛する。
それ以上に?愛妻と愛娘をこよなく愛する男  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:12Comments(0)レストラン創業者

2010年04月07日

イゴール・ライラ

日本に1件しかないスロベニアレストラン「ピカポロンツァ」を創業したイゴール・ライラ氏

「数理生態学」というう、ロシア・東欧が最も進んでいた学問の研究者として「京都大学」大学院にて研究。
「琵琶湖の生態系の研究」などで、博士号を取得。理学部長でもあった寺本先生を師事していた。

彼が来日し、大阪外大で日本語を学んだ後、京都で3年間暮らしたのが「財団法人京都国際学生の家」

この寮で、ほとんどの日本人が知らなかった当時「ユーゴスラビア」の中の1国だった「スロベニア」を正しく知ってもらう手段として、母国のスィーツを紹介した。

そのレパートリーには、ウイーンやスイス・ドイツの「アッフェルシュテゥルーデル」「アッフェルトルテ」にも似た要素を持つ「ギバニッツア」やハンガリー風の「パラチンケ」トルコの「バクラバ」と同類の「バクラー」。など過去の支配された歴史が取り入れられている。

「ユーゴスラビア」の名が示すとおり、南スラブ。つまり東スラブの「ロシア」「ウクライナ」や西スラブの「ポーランド」「チェコ」「スロバキア」と同じルーツを持つが、東でゲルマン系の影響の強いウクライナは環境的にも豚を好みロシアは牛肉を好む。同様にうくウクライナは豚を良く食べる。ソバパン・やや酸味の強いワインも特徴がある。

http://www.ne.jp/asahi/pika/polonca/

  

Posted by コモンミールKYOTO at 00:49Comments(0)レストラン創業者

2010年04月05日

ロシア料理の草分け加藤幸四郎生誕100周年

京都の「キエフ」東京の「スンガリー」
どちらも加藤幸四郎が1代で築いた。

京都の上賀茂の社家の一角の津田家で生まれた。
日本は、満州に進出していた時代。
ハルビン学園というう全国から県別に1人ずつ優秀な学生を選んで立ち上げられた超エリート学校。

京都代表が津田幸四郎である。

同じ京都の呉服屋の娘と結婚。その加藤姓を受け継いだ。

ハルビンは元々白系ロシア人と呼ばれた帝国時代の貴族たちやその取り巻きが暮らしていたロシア的な町

ここのロシア人は戦争中も日本と行動を共にしていた。その為に日本に移り住んだ人も多い。
ロシアは敵だと最終的になった為に嫌った日本人も多かった為に、白系ロシア人は日本でも苦労した。

元々全般的にロシア人はユーロアジアンと自分たちの事を考えており、また100以上の民族の多民族国家なので、日本に対して基本的に好きである。また、元々日本とロシアは友好国だったので、戦後も反米・親米に分かれたのに対し、ロシア民謡やロシア料理・ロシア映画・ロシア音楽などは身近な存在だった。その例が「百万本のバラ」と「恋のバカンス」前者はロシア民謡後者は日本の曲がロシア民謡のようになった。

そんな中、ハルビンを流れる川「スンガリー」の名前で東京にロシアレストランを開いたのが加藤幸四郎。新宿・青山・・・と店は増え、渋谷の「ロゴスキー」とオーナーと「日本ロシア料理協会」を設立。ある時期の地図には約60店舗が全国で登録されている。その後京都とキエフが姉妹都市となり京都に「キエフ」が誕生した。現在京都は長男加藤幹雄が東京は長女加藤幸子が継ぐ。

音楽演劇の今でいうプロデユーサーとしても活躍。なくなった藤田まことさんの名付け親。また戦後初めて日本の歌舞伎を海外公演「ボリショイ劇場」に連れて行ったのも加藤幸四郎。更に「キング」など2つのレコード会社で歌手の発掘育成を担当。

あの美空ひばりをコロンビアより先にオーディションしていた。まだ子供なのでもう少し大きくなってからと考えた結果、「コロンビア」に天下の歌姫を取られた事が、最後まで悔やんでいたというう。しかし、あまりにも大きな足跡を残して、今日「大谷祖廟」内の墓所に眠っている。義理の息子もその並びに眠っている。ロシアレストラン「キエフ」を眺めながら。

2010年 加藤幸四郎 生誕100周年。ちなみにその生涯を支えた妻は、今年95歳の同窓会を開こうとしている。

  

Posted by コモンミールKYOTO at 05:05Comments(0)レストラン創業者

2010年04月04日

日本近代陶芸の祖 富本憲吉

日本の陶磁器の世界がまだ世襲制で、職人の世界であった時代。
1人の建築家がロンドンに留学した。
奈良県安堵村出身。

なぜ食の関連サイトの第1号が陶芸家なのか?
和食にとって器は衣。その多様な和食器の中には、「民芸」と呼ばれる世界がある。この名前。今誰もが民芸品とか民芸店とか輸入民芸とか使っているが、柳宗悦らの民芸運動から生まれた言葉。

更に、富本のデザインは砥部焼としても和食器の定番として使われている。元々鶴亀の置物の産地。社会の変化の中で低迷する陶磁器の産業再生の為に食器の産地となって今日不動に位置にある。和食器の定番。

このデザインを最初に指導したのが京都芸大の卒業生。彼らが見本にしたのがまさに富本デザイン。
今日作家やデザイナーは自分のデザインを特許とか商標にしてブランド化しているが、富本の当時の作品は、最高級の陶磁器の花瓶が1・2万円の時代に100万位の値段が付いた。本人曰く、1品制作のオリジナルだから高いのは当然。
その一方で、自分がデザインしたブランドは安く量産して、これを社会にいいデザインを普及する運動と考えた。
したがって、本人作は美術館などにしか残ってないが、そのデザインは普及版として量産され、それを見本に様々な新しいデザインの器が生まれた。日本の食器にどれほど大きな影響を与えたのか計り知れない。彼の遺作展は今も開催され多くの人が訪れる。彼は最後に墓よりも我が作品を墓の変わりに残そうとした。

欧州の様々な建築の運動と接する中で、建築の部分を受け持つ工芸家達が、絵画彫刻に匹敵する技術と個性・創造性を要求されて活動しており、まさに工芸は芸術というう認識を持った。更に幻となった「東京博覧会」の準備調査の助手としてエジプトからインドまでを調査。多くの写真を記録用に撮影したが、残念ながらその記録と博覧会は、戦争に向かう中で失われた。

「国画会」洋画の展覧会に富本憲吉の部屋が設けられ、美術展に工芸家としてその作品がはじめて絵画と同等に展示される。
やがて、公募制になると後の民芸運動の浜田河井らも国展派となる鈴木らと共に出品。柳宗悦の「民芸館」設立には、柳・富本・浜田・河井の連名で設立運動が起こる。しかし、美術工芸運動を創作的活動と考える富本と民芸派は別れ、国展からも一時民芸派は脱退。しかしその後再度合流し、富本の1部と民芸の2部制になる。一方、官展の流れの文展に日本画・洋画・彫刻に続く第4部工芸が設立され、富本も審査員として参加。これは、東の陶芸運動の中心として陶祖とも呼ばれる板谷波山が、富本の将来を高く評価したことによる。板谷が企画した三越での陶芸展に、日本を代表する陶芸家が集められた。かなり各階を代表する高齢の重鎮のなかで、まだ若き富本が選ばれた。実は、この時、他の出品者の多くが反対し、何よりも主催者の三越が反対した。しかし、板谷の強い推薦で富本は出品者となったが、この反対を知って富本は以後この展覧会への出品を断ることになる。

「文展」「帝展」「文展」「日展」戦後官展ではなくなったが、日本で最も巨大な美術団体。その中心は芸術院会員。その一人であった富本憲吉は、戦後新たな目的を持って動き始める。その前に「芸術院」を退会。工芸作家だけの美術団体「新匠工芸会」の設立である。壷の口を曲げただけでも落選。当時確立されていた様々な常識を覆す様々な作家が「新匠工芸会」に集まった。後に「走泥社」や「モダンアート」「女流陶芸」など様々な時代を彩った多彩な作家も、評価された。その一方で、「日展」以上に伝統を重んじる人々や「民芸」の浜田や北大路魯山人・小山富士夫らも出入りした。もう一つ晩年富本は、東京芸大前身の美術学校から京都芸大の前身の京都美大に移り、工芸科の主任教授となって若い学生への教育に力を入れる。工房は盟友鈴木清の東山の泉涌寺東林町29通称「黒門」と呼ばれた敷地内に作られる。ここの登り窯で美大の学生たちも作品を焼き、留学生も暮らしていた。アメリカ陶芸の草分けフレッドオルセンも先生の工房の2階に下宿した。同士バーナードリーチやあのロックフェラーファミリーも足を運んだ。「人間国宝」制度創設の相談に、外務省の技官でもあった小山富士夫はしばしばここを訪れた。小山の盟友石黒の工房も近かった。こうして地域と分野を代表する「人間国宝」制度が設定された。その最初に富本への認定を小山が打診したとき、富本は固辞した。あくまでも伝統の技術を受け継ぎ研鑽した各階を代表する人物。自分自身は創作作家であり、真似事でない技術での制作を目指していたからだ。しかし、小山は言った。「人間国宝」は新しい制度。誰が最初にもらうかで、その評価が決まる。元芸術院会員。4つの日本を代表する美術団体の審査委員。最も高い評価を受けてる方がもらってくださった初めて、これから選ばれる人の評価の基準が決まる。度重なる説得の結果。「人間国宝」「文化勲章」受章。

日本の伝統を受け継ぐ作家の選抜展が2回開かれ、その後公募展に。最初の2回の出品者のほとんどがその後人間国宝に選定された。地域に1人。この規則により、たった1人を除いて。

1人の人間の一生は長い。この1人がいなかったら、工芸は、今も伝統の中だけの世界だったかもしれない。芸大に陶芸や染色がなかったかもしれない。

富本の教え方。「君は、何がやりないのかね?」  

Posted by コモンミールKYOTO at 04:04Comments(0)陶芸家