2010年04月04日
日本近代陶芸の祖 富本憲吉
日本の陶磁器の世界がまだ世襲制で、職人の世界であった時代。
1人の建築家がロンドンに留学した。
奈良県安堵村出身。
なぜ食の関連サイトの第1号が陶芸家なのか?
和食にとって器は衣。その多様な和食器の中には、「民芸」と呼ばれる世界がある。この名前。今誰もが民芸品とか民芸店とか輸入民芸とか使っているが、柳宗悦らの民芸運動から生まれた言葉。
更に、富本のデザインは砥部焼としても和食器の定番として使われている。元々鶴亀の置物の産地。社会の変化の中で低迷する陶磁器の産業再生の為に食器の産地となって今日不動に位置にある。和食器の定番。
このデザインを最初に指導したのが京都芸大の卒業生。彼らが見本にしたのがまさに富本デザイン。
今日作家やデザイナーは自分のデザインを特許とか商標にしてブランド化しているが、富本の当時の作品は、最高級の陶磁器の花瓶が1・2万円の時代に100万位の値段が付いた。本人曰く、1品制作のオリジナルだから高いのは当然。
その一方で、自分がデザインしたブランドは安く量産して、これを社会にいいデザインを普及する運動と考えた。
したがって、本人作は美術館などにしか残ってないが、そのデザインは普及版として量産され、それを見本に様々な新しいデザインの器が生まれた。日本の食器にどれほど大きな影響を与えたのか計り知れない。彼の遺作展は今も開催され多くの人が訪れる。彼は最後に墓よりも我が作品を墓の変わりに残そうとした。
欧州の様々な建築の運動と接する中で、建築の部分を受け持つ工芸家達が、絵画彫刻に匹敵する技術と個性・創造性を要求されて活動しており、まさに工芸は芸術というう認識を持った。更に幻となった「東京博覧会」の準備調査の助手としてエジプトからインドまでを調査。多くの写真を記録用に撮影したが、残念ながらその記録と博覧会は、戦争に向かう中で失われた。
「国画会」洋画の展覧会に富本憲吉の部屋が設けられ、美術展に工芸家としてその作品がはじめて絵画と同等に展示される。
やがて、公募制になると後の民芸運動の浜田河井らも国展派となる鈴木らと共に出品。柳宗悦の「民芸館」設立には、柳・富本・浜田・河井の連名で設立運動が起こる。しかし、美術工芸運動を創作的活動と考える富本と民芸派は別れ、国展からも一時民芸派は脱退。しかしその後再度合流し、富本の1部と民芸の2部制になる。一方、官展の流れの文展に日本画・洋画・彫刻に続く第4部工芸が設立され、富本も審査員として参加。これは、東の陶芸運動の中心として陶祖とも呼ばれる板谷波山が、富本の将来を高く評価したことによる。板谷が企画した三越での陶芸展に、日本を代表する陶芸家が集められた。かなり各階を代表する高齢の重鎮のなかで、まだ若き富本が選ばれた。実は、この時、他の出品者の多くが反対し、何よりも主催者の三越が反対した。しかし、板谷の強い推薦で富本は出品者となったが、この反対を知って富本は以後この展覧会への出品を断ることになる。
「文展」「帝展」「文展」「日展」戦後官展ではなくなったが、日本で最も巨大な美術団体。その中心は芸術院会員。その一人であった富本憲吉は、戦後新たな目的を持って動き始める。その前に「芸術院」を退会。工芸作家だけの美術団体「新匠工芸会」の設立である。壷の口を曲げただけでも落選。当時確立されていた様々な常識を覆す様々な作家が「新匠工芸会」に集まった。後に「走泥社」や「モダンアート」「女流陶芸」など様々な時代を彩った多彩な作家も、評価された。その一方で、「日展」以上に伝統を重んじる人々や「民芸」の浜田や北大路魯山人・小山富士夫らも出入りした。もう一つ晩年富本は、東京芸大前身の美術学校から京都芸大の前身の京都美大に移り、工芸科の主任教授となって若い学生への教育に力を入れる。工房は盟友鈴木清の東山の泉涌寺東林町29通称「黒門」と呼ばれた敷地内に作られる。ここの登り窯で美大の学生たちも作品を焼き、留学生も暮らしていた。アメリカ陶芸の草分けフレッドオルセンも先生の工房の2階に下宿した。同士バーナードリーチやあのロックフェラーファミリーも足を運んだ。「人間国宝」制度創設の相談に、外務省の技官でもあった小山富士夫はしばしばここを訪れた。小山の盟友石黒の工房も近かった。こうして地域と分野を代表する「人間国宝」制度が設定された。その最初に富本への認定を小山が打診したとき、富本は固辞した。あくまでも伝統の技術を受け継ぎ研鑽した各階を代表する人物。自分自身は創作作家であり、真似事でない技術での制作を目指していたからだ。しかし、小山は言った。「人間国宝」は新しい制度。誰が最初にもらうかで、その評価が決まる。元芸術院会員。4つの日本を代表する美術団体の審査委員。最も高い評価を受けてる方がもらってくださった初めて、これから選ばれる人の評価の基準が決まる。度重なる説得の結果。「人間国宝」「文化勲章」受章。
日本の伝統を受け継ぐ作家の選抜展が2回開かれ、その後公募展に。最初の2回の出品者のほとんどがその後人間国宝に選定された。地域に1人。この規則により、たった1人を除いて。
1人の人間の一生は長い。この1人がいなかったら、工芸は、今も伝統の中だけの世界だったかもしれない。芸大に陶芸や染色がなかったかもしれない。
富本の教え方。「君は、何がやりないのかね?」
1人の建築家がロンドンに留学した。
奈良県安堵村出身。
なぜ食の関連サイトの第1号が陶芸家なのか?
和食にとって器は衣。その多様な和食器の中には、「民芸」と呼ばれる世界がある。この名前。今誰もが民芸品とか民芸店とか輸入民芸とか使っているが、柳宗悦らの民芸運動から生まれた言葉。
更に、富本のデザインは砥部焼としても和食器の定番として使われている。元々鶴亀の置物の産地。社会の変化の中で低迷する陶磁器の産業再生の為に食器の産地となって今日不動に位置にある。和食器の定番。
このデザインを最初に指導したのが京都芸大の卒業生。彼らが見本にしたのがまさに富本デザイン。
今日作家やデザイナーは自分のデザインを特許とか商標にしてブランド化しているが、富本の当時の作品は、最高級の陶磁器の花瓶が1・2万円の時代に100万位の値段が付いた。本人曰く、1品制作のオリジナルだから高いのは当然。
その一方で、自分がデザインしたブランドは安く量産して、これを社会にいいデザインを普及する運動と考えた。
したがって、本人作は美術館などにしか残ってないが、そのデザインは普及版として量産され、それを見本に様々な新しいデザインの器が生まれた。日本の食器にどれほど大きな影響を与えたのか計り知れない。彼の遺作展は今も開催され多くの人が訪れる。彼は最後に墓よりも我が作品を墓の変わりに残そうとした。
欧州の様々な建築の運動と接する中で、建築の部分を受け持つ工芸家達が、絵画彫刻に匹敵する技術と個性・創造性を要求されて活動しており、まさに工芸は芸術というう認識を持った。更に幻となった「東京博覧会」の準備調査の助手としてエジプトからインドまでを調査。多くの写真を記録用に撮影したが、残念ながらその記録と博覧会は、戦争に向かう中で失われた。
「国画会」洋画の展覧会に富本憲吉の部屋が設けられ、美術展に工芸家としてその作品がはじめて絵画と同等に展示される。
やがて、公募制になると後の民芸運動の浜田河井らも国展派となる鈴木らと共に出品。柳宗悦の「民芸館」設立には、柳・富本・浜田・河井の連名で設立運動が起こる。しかし、美術工芸運動を創作的活動と考える富本と民芸派は別れ、国展からも一時民芸派は脱退。しかしその後再度合流し、富本の1部と民芸の2部制になる。一方、官展の流れの文展に日本画・洋画・彫刻に続く第4部工芸が設立され、富本も審査員として参加。これは、東の陶芸運動の中心として陶祖とも呼ばれる板谷波山が、富本の将来を高く評価したことによる。板谷が企画した三越での陶芸展に、日本を代表する陶芸家が集められた。かなり各階を代表する高齢の重鎮のなかで、まだ若き富本が選ばれた。実は、この時、他の出品者の多くが反対し、何よりも主催者の三越が反対した。しかし、板谷の強い推薦で富本は出品者となったが、この反対を知って富本は以後この展覧会への出品を断ることになる。
「文展」「帝展」「文展」「日展」戦後官展ではなくなったが、日本で最も巨大な美術団体。その中心は芸術院会員。その一人であった富本憲吉は、戦後新たな目的を持って動き始める。その前に「芸術院」を退会。工芸作家だけの美術団体「新匠工芸会」の設立である。壷の口を曲げただけでも落選。当時確立されていた様々な常識を覆す様々な作家が「新匠工芸会」に集まった。後に「走泥社」や「モダンアート」「女流陶芸」など様々な時代を彩った多彩な作家も、評価された。その一方で、「日展」以上に伝統を重んじる人々や「民芸」の浜田や北大路魯山人・小山富士夫らも出入りした。もう一つ晩年富本は、東京芸大前身の美術学校から京都芸大の前身の京都美大に移り、工芸科の主任教授となって若い学生への教育に力を入れる。工房は盟友鈴木清の東山の泉涌寺東林町29通称「黒門」と呼ばれた敷地内に作られる。ここの登り窯で美大の学生たちも作品を焼き、留学生も暮らしていた。アメリカ陶芸の草分けフレッドオルセンも先生の工房の2階に下宿した。同士バーナードリーチやあのロックフェラーファミリーも足を運んだ。「人間国宝」制度創設の相談に、外務省の技官でもあった小山富士夫はしばしばここを訪れた。小山の盟友石黒の工房も近かった。こうして地域と分野を代表する「人間国宝」制度が設定された。その最初に富本への認定を小山が打診したとき、富本は固辞した。あくまでも伝統の技術を受け継ぎ研鑽した各階を代表する人物。自分自身は創作作家であり、真似事でない技術での制作を目指していたからだ。しかし、小山は言った。「人間国宝」は新しい制度。誰が最初にもらうかで、その評価が決まる。元芸術院会員。4つの日本を代表する美術団体の審査委員。最も高い評価を受けてる方がもらってくださった初めて、これから選ばれる人の評価の基準が決まる。度重なる説得の結果。「人間国宝」「文化勲章」受章。
日本の伝統を受け継ぐ作家の選抜展が2回開かれ、その後公募展に。最初の2回の出品者のほとんどがその後人間国宝に選定された。地域に1人。この規則により、たった1人を除いて。
1人の人間の一生は長い。この1人がいなかったら、工芸は、今も伝統の中だけの世界だったかもしれない。芸大に陶芸や染色がなかったかもしれない。
富本の教え方。「君は、何がやりないのかね?」