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コモンミールKYOTO

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2010年06月18日

スピークイージーの藤本さん

国際レストランの数珠繋ぎで藤本さんが紹介されました。
http://ikokuryouri.kyo2.jp/  

Posted by コモンミールKYOTO at 14:29Comments(0)レストラン創業者

2010年06月07日

スマトラ料理テディーさん

京都のインドネシア料理といううと「ガルーダ」や「インドネシアンバルー」があったが、現在存在しない。
後者のスタッフの1人が、寺町四条下がった「ポパイカレー」などがある人気店の仕込を担当している。
コンタクトを取りたい方は、四条縄手角の「バリバリインドネシア」と交流があるので、そちらへどうぞ。

京都のインドネシア料理の多くがバリ料理店だが、テディーさんはスマトラ出身。
インドネシアの各地域の料理を出す。


お店も「ハティハティ」以外に弟さんがいる「マタマタ」(東大路祇園下がる)に「サティサティ」も

インドネシアブライダルができる120席の大型店 西木屋町六角下がる 地下  

Posted by コモンミールKYOTO at 23:01Comments(0)レストラン創業者

2010年06月01日

カスピ海料理店「シャンディーズ」のレザさん

京都に人気のアゼルバイジャン料理店「シャンディーズ」。
別名カスピ海料理店

もともとアゼルバイジャン出身のレザさん。
アゼルバイジャンは、現在ソビエト連邦から独立した国とイランの中の西と東のアゼルバイジャンの3つに分かれるが、相互に行き来する。

レザさんは、日本人の奥さんを持つ大の親日派。
日本料理店で日本料理を学んだこともある。
偶然奥様と神戸のトルコ料理店に食事に行ったのが縁で、そのお店の料理長を勤め、その後カスピ海料理店「カスピアンキッチン」を三条河原町を下がった所にOPENした。

人気店になって、現在のお店「シャンディーズ」をOPEN。
お料理は、ペルシャ(イラン)・トルコ・アゼルバイジャン・ロシアなどに囲まれるカスピ海周辺の国々の料理。
日本に1軒しかない。

60席ほどのお店なので、いろんな使い方ができる。
スタッフも女優のように美しいロシア人女性がたくさんいる。
これは、アゼルバイジャンが独立前に、ソビエト連邦に属していた為に、ロシア語も堪能なことと、お互いに料理を共有してきた歴史があるから。

一方で、ペルシャの伝統を受け継ぐプライドとトルコ料理への親しみも持つ。
日本文化にも精通している。
http://shandiz.weblike.jp/index.html  

Posted by コモンミールKYOTO at 23:34Comments(1)レストラン創業者

2010年05月27日

河上昌実「京都イタリア研究会」生みの親

京都にまだイタリア料理の風が吹いていなかった時代、数人の料理人んgイタリアに渡った。
「フクムラ」をはじめ、やがて京都にイタリアンの風が吹き始めた。「タントタント」の河上昌実の呼びかけにイタリア帰りのシェフを中心に、店舗を超えた勉強会が開かれた。当時「イルパッパラルド」のシェフだった笹島シェフ(現在の「イルギオットーネ」オーナーシェフ)をはじめ、続々とエネルギッシュな料理人が集った。フレンチの「ベルクール」の松井シェフもオブザーバー参加。

やがて「イタメシブーム」が起こり、本物志向+京都らしい独創性の追及。更に町屋ブームなどの次々と京都に新しい風が吹き続けた。その常に先頭を走ってきた、京都イタリアンの旗振り役は、いつも「タントタント」の河上シェフだった。今は、笹島シェフにバトンタッチし、自らのワイナリーなどその活動の輪を、より深めている。

http://kyoto-itaken.com/restaurant/nakagyo10.html
http://www.tantotanto.net/index.html  

Posted by コモンミールKYOTO at 22:51Comments(0)レストラン創業者

2010年05月17日

高岡清

そのお店は、京都の御所の南にある。

その名も「バンコクガーデン」京都を代表するタイレストランになった。

タイの本物を、ゆったりした空間でいただく。

「デモサワディー」「タムサバイ」なき今

京都のタイ料理を代表する大型人気店3意見店は、実はスタッフのこだわりが違う。

「チャンノイ」はタイのチェンマイ出身の料理人
「バンコクガーデン」は、名前の通り、タイの首都バンコック
「キンカーオ」は、タイ&ラオス料理

また、人気のタイ料理店は、それぞれに店のスタイルが異なる。
「クルーン」や「バーン・リムナーム」「パクチー」などは、いつも満席。
みんな、おいしい店を知っている。
そんななか、京都の1軒を紹介してほしいと人気タイ料理店主に聞いてみた。
多かった意見をまとめると、「タムサバイ」があったときは、1番評価が高かった。
現在、いろんなお店ができているので難しいが、「バンコクガーデン」を複数の同業店主から聞いた。

ある意味、自分のお店が1番なのだろう。どのお店も笑顔で答える余裕がある。  

Posted by コモンミールKYOTO at 23:44Comments(0)レストラン創業者

2010年05月15日

「エルラティーノ」の川端さん

激動の人生を生きた創業者の一人

日本を出発し、当時のヒッピーブームの時代の中、インドへそしてメキシコへ。

そこへ、日本のエスニックブーム到来。
貿易業者として、多忙を極めた。
そんな中、日本に帰国・。
『大阪花博メキシコ館長』
そして、熊野神社前に価格破壊のメキシコ料理店が開かれた。  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:23Comments(0)レストラン創業者

2010年05月11日

タイ料理「Kroon」の渡辺さん

出町の人気のタイ料理店「クルーン」
タイカレーのお店が2軒も有る筋に誕生以来、満席の人気タイ料理店。

この店のオーナー渡辺さんは、かつてあの「ザックバラン」のスタッフだった事も。
当然「シッツゲッツサン」のシゲサンもご存知。中野さんのは入れ違いであまり接点がない

多国籍的「ザックバラン」にもタイカレーがあるのだが、先斗町の「アジアティカ祇園」の店長を務める。
このお店もおいしいことで有名。厨房のスタッフ全員タイから来ている。

そんな渡辺さんが、一度は転職のために「キャピタル東洋亭」のスタッフに1度はなったが、ひょんなことから現在のコンビを組んでいるタイ人シェフの再会。ちょうどそのとき今のお店の前のお店が人気の為に、近くに引っ越してリニューアルOPEN.

ちょうど探していた場所が空いたのもチャンスと思い切って独立。
もともと腕がいい事を良く知っている、仲良しシェフのとコンビだけに、その味は1度食べたらファンになるせいかどんどん広がって満員の盛況。

役者並みの男前で、男気の有るナベさんファンは増え続けている。  

Posted by コモンミールKYOTO at 00:11Comments(0)レストラン創業者

2010年05月10日

タムサバイ・芽亜里生みの親 斎さん

京都では2番目、本格的なタイ料理店としては、最初のお店「タムサバイ」を設立したのは、輸入雑貨「芽亜利」社長の斎社長。

御所東に本店があり、比叡平の大きなカフェも持つ。
寺町三条の輸入雑貨店も有名。

近年スローフードに取り組んでいる。
右腕のお嬢様は、「サルバトーレクーモ」をお手伝い。

元々現在の堀川高校グランドの地にあった13連のお酢の工場を学校グランドとして買い上げられた時に立てたのが、「東華菜館」の前身の洋食屋「八尾政」。になったボーリスの建物だそうです。祇園にも洋館があったそうです。「八尾政」は、戦争中の横文字などの排斥の中で中国料理店に譲られたそうです。
輸入雑貨で海外にも事業を広げる斎さんの仕事の1つが本格的タイ料理でした。一時大阪方面にも出店していましたが、タイ料理に興味を持たれたのも、食への興味とスローフードなど、地球に優しい体に優しい料理。

そこで、最近はスローフードのお店になっています。

京都で最初の本格的タイ料理店を開いた「タムサバイ」オーナー斎社長。記録します。  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:12Comments(0)レストラン創業者

2010年05月09日

京都のアフリカ料理の父ケンコフィー

私がケンコフィーと呼ぶ男。
今は、京都にいない。
本名も少し違う。

京都にあったアフリカ料理の草分け「クスクス」をはじめ
「多国籍料理クーシン」(今は北大路えいでん交差より東へ・ケンのいた頃は御所東)
など、彼が厨房で紹介したアフリカ料理の数々も今は伝説になった。

西京極の「アシャンティ」の名前で、彼の店は多くの人に愛された。

ガーナの熱き男が残した足跡をここに記録します。
病気を理由に彼は、祖国の人に戻った。
いつか再び京都に戻ってくれることを願って。

  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:58Comments(0)レストラン創業者

2010年05月04日

「デポサワディー」大河内さん

京都のタイ料理の第1号は、「デポサワディー」を開いた大河内さん。
北白川の「天下一品本店」を入ったところにあった。
約5年ほど前だったか、タイ出身の奥さんを母国に連れて帰りたいと、一緒にタイへ店を閉めて帰られた。

「デポサワディ」は、家庭料理の第1号。
プロの料理人によるタイ料理店第1号は、「タムサバイ」。斎さんのお店。  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:10Comments(0)レストラン創業者

2010年05月02日

「ベルクール」の松井さん

そのお店は、銀閣寺にあった。
小さなフレンチレストラン

「北白川に出来た『京都食文化研究会』の面々のお気に入りフレンチになった。」

何よりも研究熱心な松井シェフの説明は、いつも適格だった。

今里の前を東へ『ベルクール』本店がある。

寺町二条や岡崎のスィーツデリカのお店。

  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:22Comments(0)レストラン創業者

2010年04月30日

インカ料理「森繁」

京都に昭和32年に入って、実に不思議なお店が誕生した。
インカ料理「森繁」

四条木屋町下がった「フランソワ」の並び

カウンターに座り、インカコーラとホワイトシチュー

この森繁さんの写真も紹介している貴重なブログが
http://3bayashi.com/k/hibi/morishige/top.htm

そして、この「こだわりの店」を紹介しておられるのが
http://3bayashi.com/k/hibi/kodawari/top.htm
なんと女優の三林京子さん。
http://3bayashi.com/k/profile/A4.asp
お顔を見れば知らない人はないでしょう。

しかも落語の一門にも名前がある。

今度、一門の方にお会いしたら、聞いてみたいが、なんと幅広いご活躍ばかりか、しっかり記録を残しておられる。
「森繁」さんは、今や伝説の人。
なぜなら京都エスニック50年史の始まりのお店。
店が閉まってからも、娘さんがインカコーラを販売しておられる情報で、途切れる。

やはりホワイトシチューのある「ビクーニャ」にのみ伝説が受け継がれたのだろうか。
詳しい方、関係者の方、コメントください。
http://3bayashi.com/k/phot/top.htm
  

Posted by コモンミールKYOTO at 00:43Comments(0)レストラン創業者

2010年04月28日

大槻晶彦 ハラールの仕事人

「ファーイースト」京都にあったエスニック料理店の草分けにひとつ。
元々大阪資本。このスタッフとして京都に来た大槻氏。

会社の京都撤退後、自分のお店「ぐるぐるカフェ」を開いた。
店は、カウンターのみの小さい空間。

しかしここに集うのは、世界から来た人。

イラン・カンボジア・ウクライナ・インド・フィンランド・・・・・・

個々には紹介しきれない。

京都で大槻晶彦を知らないのは、エスニックのもぐり。といっても過言ではない。

といううのも、インド・トルコ・イラン・インドネシア・・・・多くのイスラム圏の人が使うハラール食材の窓口。

必然的にお店も、世界各国のミュージシャンなどのたまり場。

その一人が藤野バヤン 通商「バヤン」。

エジプトのベリーダンスのジャミーラ。京都大学でインド哲学を学んだサンスクリット語ができるベリーダンサー

モンゴルの歌姫 伊藤麻衣子・・・・などなど。

会いたい方は、東大路東鞍馬口北西角

初めての方には手製のはりがねぐるぐる巻いたアクセサリーくれるかも。  

Posted by コモンミールKYOTO at 17:42Comments(0)レストラン創業者

2010年04月18日

スピークイージーの藤本さん

京都バーテンダーの顔

「スピークイージー」の藤本さん

若かりし頃同名のお店で働く。

アメリカロスで働く。

帰国後、自分の店を持つつもりで、渡米前にお世話になった「スピークイージー」に挨拶に行くと

閉店を考えておられた。

それなら、私に譲ってください。

思い入れのあるお店の看板を受け継いだ。

とはいえ、お店は修学院の北白川音羽川の袂にあったのを、修学院駅の西側下がるに移転

自分がアメリカで感じた世界を作った。

新しい藤本ワールドは、近くの留学生の溜まり場になった。

アメリカンスタイルのしっかりお肉のバーガーやタコスなどのメキシカンスタイルやサラダ

今、大丸北で挑戦したお店で様々な試行錯誤を繰り返している。

もうすぐ修学院に戻って、自分らしいスタイルで、しっかり腰すえて

藤本ワールドを再構築する計画

お酒のプロ

これだけは譲れないと必死で勉強した結果が

長年バーテンダー協会の京都の顔になってきた。

多くの若いお酒のプロからも慕われている。  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:39Comments(0)レストラン創業者

2010年04月16日

メキシコ食材を、家庭のまで普及させた別所さん。

北白川に、かつて「ベラクレス」といううメキシコ料理店があった。

この店の創業者、別所邦夫

http://www.worldtrading.jp/contents/profile01.html

今では、岡崎のメキシコ料理店「レイナデレイナ」以外に、タイ他海外工場も持つメキシコ食材の輸入元「ワールドトレーディング社長。  

Posted by コモンミールKYOTO at 02:11Comments(0)レストラン創業者

2010年04月11日

割烹 露瑚(ろこ) 岡田幹司社長

割烹 露瑚(ろこ)
木屋町二条下がるにある床のある小粋な割烹店

このお店のオーナー 岡田幹司社長

これほど自分が表に出ないすごいオーナーは珍しい。

スペインから帰国後、輸入雑貨「グランピエ商会」設立(銀閣寺の「ノアノア」の地下からの出発。
東京青山と平行しての営業ながら

京都エスニックの草分け「無国籍料理カプリチョース」「カプリチョースセグンド」スペインバル「セサモ」「プエルタ」「カプリチョース麺粥」「鹿ケ谷山荘」「我忘」宇治の「ちょうちょ」「丁子屋」「割烹 露瑚(ろこ)」他にもプライベートな食空間を手がけている。

常に自分の人生の中で、居心地がいいと思う空間を自分で作り続けてきた。

「鹿ケ谷」「我忘(ボアは猪)」「ちょうちょ」で猪鹿蝶。

今は究極のくつろぎの場割烹 露瑚(ろこ)。

陶芸でも才能を発揮するも、名前は出さず。

きっと民芸運動のパトロンのお父様の血かもしれない。

http://www.granpie.com/



  

Posted by コモンミールKYOTO at 23:35Comments(0)レストラン創業者

2010年04月10日

京都のスペイン料理店「ボデゴン」創始者高田さん

京都のスペイン料理の歴史は、嵐山の「ボデゴン」に始まる。
このお店は車折神社の神官の息子さんであった高田さんが創業者。

東大出身。中近東や欧州。特にスペインの貿易商として、戦後いち早く海外に進出。その時のコレクションを集めた個人用ビップルームとも言うべほんまもんのスペイン空間を嵐山に開いたのが最初。

当初は店ではなかったが、交流のある各界の名士が訪れるプライベート空間であった。
後の人間国宝近藤悠三 京都芸大名誉教授で京大西アジア調査隊の小山喜平などシルクロード所縁の人々との交流のなかから振舞われたスペイン料理が評判となって「スペイン料理ボデゴン」が誕生した。

その意志は、今も嵐山に受け継がれている。
渡月橋から天龍寺へ向かう北東の桜餅のお店と同系列。

http://suzuki.888j.net/domestic/kyoto/kyoto.html  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:54Comments(0)レストラン創業者

2010年04月09日

大槻一之

大槻一之
京都一安い和食のお店?
中近東「キリム」の貿易商?

http://www.kinokilim.com/page/1
2つの顔を持つ男。

下鴨生まれ。
洛北高校山岳部出身。

「グランピエ商会」時代キリムなど織物の担当者として、シルクロードを走り回る。

山男として、信州仕込みか?
「蕎麦打ち名人」のニックネームも。
専用道具が、若かりし頃からすぐに蕎麦を披露。

あの「北山荘」もこやなく愛する。
それ以上に?愛妻と愛娘をこよなく愛する男  

Posted by コモンミールKYOTO at 01:12Comments(0)レストラン創業者

2010年04月07日

イゴール・ライラ

日本に1件しかないスロベニアレストラン「ピカポロンツァ」を創業したイゴール・ライラ氏

「数理生態学」というう、ロシア・東欧が最も進んでいた学問の研究者として「京都大学」大学院にて研究。
「琵琶湖の生態系の研究」などで、博士号を取得。理学部長でもあった寺本先生を師事していた。

彼が来日し、大阪外大で日本語を学んだ後、京都で3年間暮らしたのが「財団法人京都国際学生の家」

この寮で、ほとんどの日本人が知らなかった当時「ユーゴスラビア」の中の1国だった「スロベニア」を正しく知ってもらう手段として、母国のスィーツを紹介した。

そのレパートリーには、ウイーンやスイス・ドイツの「アッフェルシュテゥルーデル」「アッフェルトルテ」にも似た要素を持つ「ギバニッツア」やハンガリー風の「パラチンケ」トルコの「バクラバ」と同類の「バクラー」。など過去の支配された歴史が取り入れられている。

「ユーゴスラビア」の名が示すとおり、南スラブ。つまり東スラブの「ロシア」「ウクライナ」や西スラブの「ポーランド」「チェコ」「スロバキア」と同じルーツを持つが、東でゲルマン系の影響の強いウクライナは環境的にも豚を好みロシアは牛肉を好む。同様にうくウクライナは豚を良く食べる。ソバパン・やや酸味の強いワインも特徴がある。

http://www.ne.jp/asahi/pika/polonca/

  

Posted by コモンミールKYOTO at 00:49Comments(0)レストラン創業者

2010年04月05日

ロシア料理の草分け加藤幸四郎生誕100周年

京都の「キエフ」東京の「スンガリー」
どちらも加藤幸四郎が1代で築いた。

京都の上賀茂の社家の一角の津田家で生まれた。
日本は、満州に進出していた時代。
ハルビン学園というう全国から県別に1人ずつ優秀な学生を選んで立ち上げられた超エリート学校。

京都代表が津田幸四郎である。

同じ京都の呉服屋の娘と結婚。その加藤姓を受け継いだ。

ハルビンは元々白系ロシア人と呼ばれた帝国時代の貴族たちやその取り巻きが暮らしていたロシア的な町

ここのロシア人は戦争中も日本と行動を共にしていた。その為に日本に移り住んだ人も多い。
ロシアは敵だと最終的になった為に嫌った日本人も多かった為に、白系ロシア人は日本でも苦労した。

元々全般的にロシア人はユーロアジアンと自分たちの事を考えており、また100以上の民族の多民族国家なので、日本に対して基本的に好きである。また、元々日本とロシアは友好国だったので、戦後も反米・親米に分かれたのに対し、ロシア民謡やロシア料理・ロシア映画・ロシア音楽などは身近な存在だった。その例が「百万本のバラ」と「恋のバカンス」前者はロシア民謡後者は日本の曲がロシア民謡のようになった。

そんな中、ハルビンを流れる川「スンガリー」の名前で東京にロシアレストランを開いたのが加藤幸四郎。新宿・青山・・・と店は増え、渋谷の「ロゴスキー」とオーナーと「日本ロシア料理協会」を設立。ある時期の地図には約60店舗が全国で登録されている。その後京都とキエフが姉妹都市となり京都に「キエフ」が誕生した。現在京都は長男加藤幹雄が東京は長女加藤幸子が継ぐ。

音楽演劇の今でいうプロデユーサーとしても活躍。なくなった藤田まことさんの名付け親。また戦後初めて日本の歌舞伎を海外公演「ボリショイ劇場」に連れて行ったのも加藤幸四郎。更に「キング」など2つのレコード会社で歌手の発掘育成を担当。

あの美空ひばりをコロンビアより先にオーディションしていた。まだ子供なのでもう少し大きくなってからと考えた結果、「コロンビア」に天下の歌姫を取られた事が、最後まで悔やんでいたというう。しかし、あまりにも大きな足跡を残して、今日「大谷祖廟」内の墓所に眠っている。義理の息子もその並びに眠っている。ロシアレストラン「キエフ」を眺めながら。

2010年 加藤幸四郎 生誕100周年。ちなみにその生涯を支えた妻は、今年95歳の同窓会を開こうとしている。

  

Posted by コモンミールKYOTO at 05:05Comments(0)レストラン創業者