ロシア料理の草分け加藤幸四郎生誕100周年
京都の「キエフ」東京の「スンガリー」
どちらも加藤幸四郎が1代で築いた。
京都の上賀茂の社家の一角の津田家で生まれた。
日本は、満州に進出していた時代。
ハルビン学園というう全国から県別に1人ずつ優秀な学生を選んで立ち上げられた超エリート学校。
京都代表が津田幸四郎である。
同じ京都の呉服屋の娘と結婚。その加藤姓を受け継いだ。
ハルビンは元々白系ロシア人と呼ばれた帝国時代の貴族たちやその取り巻きが暮らしていたロシア的な町
ここのロシア人は戦争中も日本と行動を共にしていた。その為に日本に移り住んだ人も多い。
ロシアは敵だと最終的になった為に嫌った日本人も多かった為に、白系ロシア人は日本でも苦労した。
元々全般的にロシア人はユーロアジアンと自分たちの事を考えており、また100以上の民族の多民族国家なので、日本に対して基本的に好きである。また、元々日本とロシアは友好国だったので、戦後も反米・親米に分かれたのに対し、ロシア民謡やロシア料理・ロシア映画・ロシア音楽などは身近な存在だった。その例が「百万本のバラ」と「恋のバカンス」前者はロシア民謡後者は日本の曲がロシア民謡のようになった。
そんな中、ハルビンを流れる川「スンガリー」の名前で東京にロシアレストランを開いたのが加藤幸四郎。新宿・青山・・・と店は増え、渋谷の「ロゴスキー」とオーナーと「日本ロシア料理協会」を設立。ある時期の地図には約60店舗が全国で登録されている。その後京都とキエフが姉妹都市となり京都に「キエフ」が誕生した。現在京都は長男加藤幹雄が東京は長女加藤幸子が継ぐ。
音楽演劇の今でいうプロデユーサーとしても活躍。なくなった藤田まことさんの名付け親。また戦後初めて日本の歌舞伎を海外公演「ボリショイ劇場」に連れて行ったのも加藤幸四郎。更に「キング」など2つのレコード会社で歌手の発掘育成を担当。
あの美空ひばりをコロンビアより先にオーディションしていた。まだ子供なのでもう少し大きくなってからと考えた結果、「コロンビア」に天下の歌姫を取られた事が、最後まで悔やんでいたというう。しかし、あまりにも大きな足跡を残して、今日「大谷祖廟」内の墓所に眠っている。義理の息子もその並びに眠っている。ロシアレストラン「キエフ」を眺めながら。
2010年 加藤幸四郎 生誕100周年。ちなみにその生涯を支えた妻は、今年95歳の同窓会を開こうとしている。
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